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びゆてぃふる・らいふ

びゆてぃふる・らいふ

8.姉への手紙

8.姉への手紙 

お姉ちゃんへ

いくら余命を宣告されたって、私は信じなかった。
信じたくなかった。
たとえこのまま寝たきりの状態であっても、ずっとここにいてほしかった。

辛かったね。
苦しかったね。
いつかお姉ちゃんが言ってた。
「こんな体で生まれてきたのもこんな病気になったのも天罰なのかな」
どうして天罰?そんなはずないよ。
お姉ちゃんは何も悪いことなんてしてないのに。
脳性小児麻痺による障害を背負いながらも、こんなに頑張って一生懸
命に生きてきたのに。
それなのに、とうとうがんには打ち克つことはできなかった。

お姉ちゃんは本当によく頑張ったよ。私が一番よく知っている。
あんなに苦しい治療にも耐えて、泣き言を言うのは私とそれから親友
のHさんにだけだったね。
泣き言や愚痴ならいくらでも聞いてあげる。。私にできたのはそれだけ
だった。
でも、私の応援が足りなかったのかな。
私の祈りが足りなかったから神様が聞き届けてくれなかったのかな。
・・ごめんね。

それからね、まだまだ沢山の「ごめんね」を言わなきゃならない私。

私が中学生の頃お姉ちゃんは高校で寮生活だった。
だからその頃の私の友達はお姉ちゃんの存在を知らないと思う。
幼い頃はあんなに仲のよい姉妹だったのに、いつからか私の心は
醜く変わってしまった。
歩き方も話し方も人とは違う、あんな姉がいるなんて友達に知られた
ら恥ずかしい。。
私こんなこと思っていたんだよ。最低だね。
今思い出してもあの頃の自分がゆるせない。
あの頃に戻って、自分のほっぺたを何発もひっぱたいてやりたい。
・・ごめんね。

大人になってからはそんなことは思わなくなったけど、それでも両親
がいなくなった後はどうなるんだろう、やはり私が全面的にお姉ちゃ
んの面倒を見ることになるのかなと考え、それを少し負担に思うこと
もあった。
私がそんなことを考えていたから、神様はこんなに早くお姉ちゃんを
連れていってしまったのかな。きっとそうだ、私のせいなんだ・・
・・ごめんね。

病気がわかってから約一年の間、がんは小さくなったりまた大きく
なったりを繰り返していたけど、お姉ちゃん本人も私達もきっとよく
なると信じていた。先はまだまだ長いと考えて、私はそれほど頻繁
には病院や家に行ったりしなかった。病院の外来だってほとんど
ヘルパーさん達任せにしてしまった。いくらヘルパーさん達がいい人
でも、遠慮したり気を使うこともあったのに。
お姉ちゃんにとっては親友のHさんとそれから私だけが、心を開く
ことにできる相手だと知っていたくせにね。
Hさんは家が近所だったこともあってしょっちゅうたずねてきてくれて
励ましてくれた。Hさんには私よりもずっとずっと姉の支えになってく
れたことを心から感謝しています。
余命を宣告された後、もう時間がないとせきたてられるような思いで
いた私なのに、毎日でも通いたかった病院なのに、それなのに、ここ
でも十分なことをしてあげることができなかった。。。
姑のせいだ、なんてそれは言い訳だった。
なんとかしようと思えば出来たのかもしれない、本当は私がただ逃
げたかっただけなのかもしれない。
この後悔の思いはきっと一生残って、私の心をちくちくと刺し続けて
いくと思う。私はその痛みを甘んじて受けていく。だけどそんなもの
でゆるしてもらおうなんて思っていない。
・・ごめんね。

6年前に父をやはりがんで亡くしたとき、「ありがとう」と言えなかっ
た後悔をずっとひきずってきたのに、今度も同じことをしてしまった。
お姉ちゃんは、医師から「病気はこれ以上よくなることはありません、
もう治りません」と直接宣告されたけど、それでも、生きることへの
希望は決して捨てなかったよね。
そんな姿を見ていたら、やっぱり言えなかった。
痛み止めのモルヒネの影響で、意識が混濁してきたときにやっと
小さな声で言ってみた。
「お姉ちゃんがいてくれたから、私は今までこうして生きてこれたん
だよ。私のお姉ちゃんでいてくれてありがとう。私のことを、私の
子供達をあんなに可愛がってくれて本当にありがとう。」
何も答えてくれなかったけど、きっと聞こえてたよね? ・・でも、
やっぱり意識のあるうちに言いたかった。
・・ごめんね。

まだまだ「ごめんね」があるんだよ。
亡くなる2ヶ月前に看護士さんやヘルパーさんたちの協力のおか
げで一時帰宅して療養してたとき、ユリの花をもって来てほしいと
頼まれた。大好きなカサブランカにしようと思って花屋へ行ったけ
ど値段にびっくりして、結局鉄砲ユリにしてしまった。
喜んでくれたけど、なんであの時奮発してカサブランカにしなかっ
たんだろう。

闘病中もよく本を読んでいたお姉ちゃん。
大好きな東野圭吾さんの新刊が出たので早速もっていったけど
その頃具合が悪かったりしてなかなか読めなかったっけ。
何ヶ月も過ぎてしまい、息子の本だったので息子の友達が借りた
がってるから、といったん返してもらった。
その後でもう一度もっていったけど、とうとう読むことはできなか
った。
バカだった。本なんてその時もう一冊買って渡したらよかったのに。

食べ物だってそうだった。
あまり食べられなくなった頃、桃の缶詰を持っていったら一切れだ
けど美味しそうに食べてくれた。
「次はもう一度桃とそれからたこ焼きを持ってきてくれる?」
「うん、いいよ、今たこ焼きを買ってこようか?」
「もう時間がないでしょ、今日はいいよ。」
だけど翌日は薬の影響でほとんど眠りっぱなし。何も食べれなくて
結局たこ焼きはもって帰り、それ以降は何も食べられなくなった。
時間なんて気にせずに、あの日たこ焼きも買いに行けばよかった。
たとえ一口でも食べさせてあげたかった。

モルヒネの影響で幻覚をみるようになってから、病室での夜がとて
も不安で怖かったようだ。
朝病室に入るなり、「昨日の夜は怖かった、知らない人がその椅子
にすわってた」と泣き出したり・・
病院は完全看護で、夜中のつき添いはみとめてくれなかった。
ホスピスに転院するつもりで申し込んでいたので、
「つぎの病院に行ったら私泊まってあげるからね」
とずっと言っていた。それは夫にも頼んであったし、一泊や二泊な
らなんとかなるはずだった。
けれど、ホスピスの順番は間に合わなかった。
もっと早くに手続きをすればよかった。

だけど・・こんなことじゃなくて、私が一番懺悔しなければならない
ことがある。
それは・・・・・
4月の終わり頃に主治医から
「残念ですがもう手のうちようがありません。この夏を迎えられるか
どうかわかりません。」
と宣告されたとき、本当にものすごいショックだった。
なんで、なんでなの!と大声で叫びたかった。
だけどね、心のどこかで・・たった一瞬だったけども
「あぁやれやれ、この看病生活にも終わりがくるんだ」
と思ってしまった自分を見つけて、そんな自分をまたゆるせなくて
すごく苦しかった。
ごめんね、お姉ちゃん。
私は人間の面をかぶった鬼だ。ケダモノだ。
一瞬でもそんなこと考えたなんて。
いくら苦しむお姉ちゃんをもう見たくないからってそんな恐ろしいこ
とを考えたなんて。
その頃読んだ本に「1リットルの涙」「いのちのハードル」という、難
病の娘さんを献身的に看病されるお母さんと力尽きて亡くなって
いくその娘さんの話があった。
このお母さんは一瞬たりとも
「しんどい、早く楽になりたいし楽にならせたい」
などとは思わなかったのだろうか。
それに比べて私は・・・あぁやっぱり最低だ。私は人間じゃない。

お姉ちゃんが逝ってしまってから2ヶ月。
この間、一日たりともお姉ちゃんに「ごめんね」を言わない日は
なかった。
苦しくて苦しくて、自分が自分でなくなりそうで、どうしたらいい
のかわからなかった。今もわからない。

私、まだまだ苦しみ続けていく。
お姉ちゃんのこと、私がお姉ちゃんにしたこと思ったことをこの
先もずっと忘れない。

あの世で再会したときには思い切り私のことを怒ってね。
思い切り殴ってね。
だけどその後は、できれば昔のようにつまんないことをしゃべ
って笑い合いたい。
私がそっちへ行くまで、どうか待っててね。

もう一度、いやこれからも何度でも言うよ。
「お姉ちゃん、ごめんね」・・・・・

(2005/9/28)















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